池田工芸について
私たち池田工芸は1942年、大阪の下町に創業者の名前を冠した池田順一商店として産声をあげました。創業当時は絹や綿で織られた美しい裂地(きれじ)を使った和装に合うバッグを花柳界向けに仕立てるところから始まりました。
一流の粋人が集う場で好まれるバッグを仕立てていくうちにその美意識とアイディアが磨かれていくことにより、やがてその興味は妖艶な魅力を放つエキゾチックレザーへと移り変わっていきます。
創業者の独創性と先見性のおかげか、新しく取り入れた素材を使用したバッグは毎回飛ぶように売れ、そうしたヒットを繰り返していくうちにいつしか業界でも一目を置かれる存在として認められるようになりました。
業界からの信頼関係ができると不思議なもので、何か珍しいものがあれば池田工芸に持ち込まれるという文化もこの時に生まれたようで、センザンコウから始まったエキゾチックレザーは、リザード、オーストリッチ、そしてクロコダイルへと多岐に渡り、いつしか品質の高い素材が国内で一番最初に届く工場になりました。
エキゾチックレザーはいずれも当時としては他のメーカーが尻込みして手を出さない”超”高級素材、そうしたリスクを顧みずに挑戦していく姿勢もまた周囲の注目と期待を集める要因になったのかもしれません。
そうした攻めの姿勢は素材の仕入れだけに止まりませんでした。1959年には住吉の地に60坪の工場を作り、他にはない規模と近代的な生産システムの確立によって当時の業界を驚かせ、そのわずか5年後には300坪を超える現工場を建造して、業界一の工場として今でも稼働しています。
世の中の最先端の”粋”を求めてきたからか、デザインの重要性も早いうちから意識して注力してきました。
1964年に日本で海外渡航が可能になってすぐにファッションの都パリに飛び、そこからミラノ、フィレンツェを視察、当時の世界最先端の流行に触れました。
日本ではまだデザイナーという存在が認識されていませんでしたが、ヨーロッパのファション界を牽引していたのは新進気鋭のデザイナーたち。今までも肌で感じていたデザインの重要性を改めて再認識した創業者は、帰国後、国内で他に先駆けてデザイン専門の企画室を創設。そこから生み出された最先端のバッグにより、いつしか業界を牽引する存在となりました。
国内のクロコダイル製品のデザインや素材などで池田工芸発祥に原点を持つものが多く存在するのも業界のトップを走り続けてきたからこそと言えるでしょう。
この渡欧の際に現地で見たふっくらとしたクロコダイルを参考に試行錯誤した結果生まれたのが、いまのふっくらとした斑を生み出すボンベ加工になります。池田工芸が取り入れたことで国内にもその加工方法は広がりました。
やがて日本は大量生産、大量消費の時代の入ります。メーカーはこぞって人件費の安い海外に工場を移設して行きますが、池田工芸では本当に良いモノを作ることにこだわり日本のモノつくりという軸を崩しませんでした。
工場の海外移設の波によって技術が海外に流れていった時代によって国内の産業が失ったモノに気づいた時に多くの工場は手遅れになりましたが、池田工芸は全ての技術を国内留めてきたため今でも様々な技術や経験が継承されています。
国内ではもう数えるほどしか残っていない全ての工程を自社内で一貫で行うことが出来る革製品のマニュファクチュール、それが今に残っているのはこれまで工場の歴史を支えてきた先人の先見の明があったからだと思います。
そうした業界の先駆者として新しい挑戦を続けてきた功績、技術を国内に残してきた功績が認められて1981年に黄綬褒章、1985年には勲5等勲章を受勲に至ります。
また、その評価は国内に留まらず、世界に向けて発信されています。2008年にはパリ、ルーヴルの装飾美術館へ、2012年には世界中のトップバイヤーが集う世界最大規模の国際的な見本市であるMIPEL(ミペル)へ、そして2017年にはミペルと双璧をなす見本市PITTI UOMO(ピッティ・ウォモ)にも招待されるという光栄を浴する機会をいただきました。
「クロコダイル業界のパイオニアにして老舗」として今も昔も妥協ないモノづくりを続けてきた歴史と伝統はいま世界で認められています。